第251回 意匠学会研究例会 発表要旨
■明代漳州窯の盤に描かれた毛女について
毛 嘉琪/京都女子大学大学院
中国美術において山水や花鳥図と並び、仙人はもっともポピュラーな図像のひとつである。長い歴史の中では、八仙や西王母のように広く知られている仙人の他にも多くの仙人が存在した。本論は明代から清代にかけて福建省南部の漳州地域で生産された漳州窯とされる磁器に描かれた仙人「毛女」についての研究である。漳州窯は染付、赤絵、藍釉、褐釉、白釉などの磁器を生産した窯である。江西省の景徳鎮のように皇帝のために磁器を生産した官窯ではなく、一般の需要に応じて生産された民窯である。日本には桃山時代から江戸時代にかけて輸入され「呉須手」と称された。欧米では広東省北部の汕頭港から欧州へ向けて出荷されたことから「スワトウ(汕頭)・ウェア」と呼ばれる。
様々な文様が描かれる漳州窯だが、その中の赤絵の盤に、花笠がついた花籠を背負う裸足の仙人が鹿と描かれているものがある。代表例としては大阪市立東洋陶磁美術館に収蔵されている《漳州窯五彩仙人図盤》や上海博物館にも同様の作品が所蔵されている。これまで、この仙人については八仙の内の韓湘子、藍采和、八洞神仙の麻姑であると推定されてきた。しかしどの説もこの盤に描かれた仙人と図像が一致するわけではなく、憶測の域を脱していなかった。
現存する中で最古の神仙伝記集とされている漢時代の『列仙伝』には「毛女」について以下のように記されている。秦の始皇帝に仕える宮女だったが、秦が滅んだために山中に逃れ、松葉を食べて生き延び、170年の歳月を経た末に空を飛ぶほど身の軽い仙人になった。体に毛が生えていたことから毛女と呼ばれる。
台湾の故宮博物院所蔵の伝宋李公麟《毛女圖》には、山に住み、鹿に乗っている毛女と、花笠や花籠を背負うもう一人の毛女が描かれており、漳州窯の盤に描かれた仙人の図像と一致する。この他にも陶磁器、絵画、金属器、伝記、詩文などから「毛女」の図像について検証し、漳州窯の盤に描かれた仙人が毛女であることを明らかにする。
■ガンディー主義におけるカーディーの継承 手紡ぎと手織りの意味をめぐって
岡田 弥生/大阪大学大学院
カーディーとは、インドをはじめとする南アジアにおいて、手紡ぎ手織りの布を指す語である。もともと、布全般を意味する語にすぎなかったが、M.K.ガンディー(1869-1948)が政治運動でもちいたことで、自由や自治、独立を象徴するようになった。カーディーはおおむね、平織りで、素材には主に綿が使用される。色はさまざまであり、手紡ぎ独自の凹凸があるのが特徴である。現代においても、カーディーはインド国内外で受容されている。これまで、ガンディーの思想とともに、カーディーが植民地期のインドでどのように受容されたかといった歴史的な考察は豊富になされてきた。しかし、現代のカーディーの姿は断片的にしか捉えられていない。政治や民族意識、社会問題と深く結びつきながら今も息づくカーディーを考察することは、モノを介して、公には語られないインドの現状を理解することにもつながる。
現代のカーディーはおもに、三つの潮流がみとめられる。第一に、ガンディー主義者が継承するカーディー、第二に、ナショナルブランドとして政府が推進するカーディー、第三に、ファッションデザイナーがもちいるカーディーである。本発表はそのなかでも、第一の点すなわち、今日のガンディー主義者がいかにカーディーの思想と実践を重視しているかについて、現地調査にもとづき報告する。2022年11月から2ヶ月半のあいだ、発表者はガンディーがインドのグジャラート州に創設したグジャラート・ヴィダヤピット(Gujarat Vidyapith)という大学に相当する教育施設に滞在し、彼の思想に共感する人々がどのようにカーディーを受け継いでいるのか、調査を行った。本発表は、グジャラート・ヴィダヤピットにおける教育方針と教育実践の分析、教員や学生へのインタビューをもとに、現代のガンディー主義者たちが「自治」や「祈り」、社会に変化をもたらす「きっかけ」としてカーディーを継承していることを明らかにする。
■社会デザインの歴史をどう記述するか
高安 啓介/大阪大学
社会デザインの自覚が高まるのは、20世紀後半から商業デザインの負の側面が目立つにつれて、デザイナーの社会責任が問われてからである。一般にソーシャルデザインとも呼ばれる活動をここでは社会デザインと呼んでいるが、いずれにしても、この呼び名が広まったのは、21世紀からとみられる。現在では、社会デザインは、利益の最大化をねらうのでなく、社会問題の解決を優先するデザインとして理解されている。これまで、この分野への関心の高まりとともに、問題解決のための方法論や、取り組み事例の紹介は多くみられたが、社会デザインの歩んできた歴史はあまり語られなかった。本発表はそこで、社会デザインの歴史について以下の点から考察をおこなう。
第一に、社会デザインとは何かをあらためて問い直して、研究のおよぶ範囲を見定める。第二に、社会デザインの研究状況をとらえ、社会デザインの歴史だけでなく社会デザインの哲学がどのように論じられてきたのかを検証する。社会デザインの実践はソーシャルワークの仕事と重なる部分も大きいため、後者の理論からも豊かな知見を得られることを指摘したい。第三に、社会デザインの研究の基礎として、事例の記録とデータベース作成について検討をおこなう。社会デザインがもはやものづくりを前提としない場合もあるならば記録保存のしかたが問われるだろう。
第四に、社会デザインの歴史の三段階モデルを提案する。一段階目は、労働のありかたを見直して、美しいものを生み出そうとする段階であり、社会に配慮しようとする段階である。二段階目は、消費のありかたを見直して、必要なものを生み出そうとする段階であり、社会に貢献しようとする段階である。三段階目は、生活のありかたを見直して、人と人との関係を生み出そうとする段階であり、社会を創造しようとする段階である。
第五に、社会デザインの普及にとって大きな役割を果たすのが、大学における専門教育であり、美術館における展示であるならば、二つの普及活動において歴史研究がどれほど意味を持つのかを問うことで、本発表の結びとする。意匠学会では、工芸やデザインの歴史研究がこれまで盛んだったが、本発表をとおして、社会デザインの歴史への関心をうながしたい。