第244回 意匠学会研究例会 発表要旨

■松花堂草庵の意匠 ─竃・茶室・庭園の関係を中心に─
佐藤 悦子/京都工芸繊維大学大学院

 本研究は、江戸初期の芸術文化に深い足跡を遺した松花堂昭乗(1582~1639)が、自らが創建した草庵茶室(八幡市・松花堂美術館に現存)における竃・茶室・庭園をどのように設計したのか、また、当時の宮廷文化から受けた影響が昭乗の心の中でどのように育まれ、草庵の意匠に反映されたのかを研究しようとするものである。
 徳川家光が将軍の時代に、瀧本坊の住職であった松花堂昭乗は1637年(寛永14年)、草庵を創建し、阿闍梨として最晩年の2年間を終の棲家とした。昭乗は江戸の三筆として名高く、また絵や茶道にも造詣が深く、彼の芸術家としての美意識は生活空間に大きく影響したと考えられる。昭乗がデザインした草庵には個性豊かな伽が設えてあり、当時の綺麗な姿が現存している。昭乗が草庵を創建するのにあたり、鴨長明(平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した歌人・随筆家・下鴨神社の禰宜)が建てた方丈の庵に影響を受けたとも思われる。これは彼が方丈の庵を幾度となく尋ねた形跡があること、松花堂草庵が方丈の庵と同じく四畳半であること、昭乗が草庵を建設した当時、鴨長明の肖像画をよく描いていることなどから推測される。
 草庵の伽には、家紋のような環状大小数個のオブジェが嵌め込まれている。伽の使用材料は、八幡の土に藁を混ぜ水で練ったもので、左官が作った伽である。施主である昭乗が指図しない限り家紋のような意匠を入れることはまず考えられないので、昭乗の意向に違いない。作庭は小堀遠州(1579~1647)の影響を受けたと思われる。小堀遠州は高台寺境内の傘亭に設えた伽の監修も手掛けている。松花堂草庵と傘亭の二茶席の構成材料・意匠等を比較すると類似点が多岐にわたっており、小堀遠州が関与したことに疑いの余地はないと考えられる。
 また、松花堂草庵と傘亭には、「もてなしの心」とも呼べるデザイン的共通点がある。茶懐石を客人にもてなす際の導線と料理の配膳における適温等を配慮していることである。昭乗は密教の阿闍梨にまで登り詰めた人格者であり、出会いを大切にし、人々に「もてなしの心」を以って接したであろうことは想像に難くない。つまり、昭乗の草庵茶室の竃・茶室・庭園の意匠は、小堀遠州の茶の湯における宮廷サロンとの交友関係、また自らが修行し積み上げてきた密教の精神に大きく影響を受け、もてなしの心の造形として独創的な生活空間が生み出されたと考えられる。確かに茶室内に伽を導入することは、造形的にかなり型破りだと思われるが、伝統的な茶の空間に今までになかった要素としての伽を一体化することで、茶の空間芸術に斬新な形と概念を吹き込んだものとして高く評価できるのではないだろうか。またこの研究による発見は、後の台所文化の進化を考察する上でも重要な示唆を与えてくれるであろう。



■日英博覧会における美術品としての陶磁出品と京焼
慮 ユニア/日本学術振興会外国人特別研究員/京都工芸繊維大学

 日英博覧会は、1910年5月から10月までロンドンで、日英「両国間ノ国交ヲ更ニ一層親善ナラシムルト同時ニ其ノ通常貿易ヲ助長スル」(『日英博覽會事務局事務報告 上巻』農商務省、1912、2頁)ために開催された国際博覧会である。同博覧会は、万国博覧会でも内国博覧会でもない曖昧な位置にあるためか、他の博覧会と比べ先行研究が進んでいない。しかし、日本と英国だけの出品で行われたため面積や内容に制約が少なかったことや、835万人という入場者数を記録したことを考えると、同博覧会が果たした日本文化の宣伝効果は決しておろそかにされるものではない。
 日英博覧会における陶磁出品の特徴としては、古美術品と新美術品として区分された美術出品において、古美術品の陶磁出品がなかったことが挙げられる。本博覧会以前には、歴史的陶磁の出品や博覧会に合わせて歴史書や解説書の出版が企画された。そこには日本陶磁の長い歴史を示し、同時に、装飾陶磁器に偏っていた西洋人の関心をバランス良く直そうとする目的があったと考えられる。しかし、日英博覧会では、歴史的陶磁出品を完全に排除し、新美術品のみ出品している。
 さらに新美術品の陶磁出品においては、京焼の比重が非常に高かったことが注目される。出品者13人のうち、8人が京焼の作家であり、図録掲載の24点の作品中、11点が京焼である。これは、日英博覧会を準備していた1909年の時点で京焼に対する評価が国内で非常に高かった可能性を示す。しかし、本博覧会以前の第四回内国勧業博覧会(1895)や第一回全国窯業品共進会(1901)では京焼に対する評価は低かった。ここから、1901年以降1909年までの間に京都での陶磁器制作に変化が起こり、京焼の進歩が目立つようになったと推察できるが、この時期というのは京都高等工芸学校が1902年開校して、中澤岩太と浅井忠らが京都工芸の図案改革に取り組んでいた時期と完全に重なる。
 以上のことを踏まえ、本発表では、まず日英博覧会における美術品としての陶磁出品の経緯と特徴を考察し、同博覧会において出品された京焼の作家と作品を分析する。さらに、この時期に見出せる京焼の革新と中澤岩太や浅井忠らの図案改革とのつながりを明らかにしたい。本研究は、ジャポニズムの衰退後、日本の陶磁界がいかに世界に向けて発信していたか、さらには京都における図案改革が大正期日本工芸にいかに作用していたかがわかる一つの端緒となると考えられる。