第233回 意匠学会研究例会 発表要旨

■ 大阪万博アメリカ館とQUILT —日本におけるキルトの受容—
片桐真佐子/奈良女子大学大学院博士後期課程

 万国博覧会(以下、万博)は、1851年、「万国の産業の世界の大博覧会 The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations」としてロンドンに生まれた。産業社会を大衆に啓蒙するプロモーションであり、近代国家の産業振興政策でもあった万博は、当初から「人類の進歩には科学技術が不可欠」という含意があり、パリ万博がL’Exposition universelle(万物博覧会)と表されたように、人類が生みだしたものすべてを会場で見せるという意識を内在してくこととなる。そのため万博は、「進歩」という産業技術競争の顕示と「伝統」という日常生活での知恵の蓄積の呈示という二面性を胎むこととなる。
 1970年、大阪万博のアメリカ館は、<人類の進歩と調和>というテーマのもと、「月の石」や宇宙船とともに「キルト」を展示品として選択する。「月の石」が「進歩」の象徴であるならば、「キルト」はまさにアメリカの「伝統」や「文化」として他の民芸品とともに並べられたのである。日本は当時、高度経済成長のただ中にあり、「進歩」的な展示品はエンターテインメントとして享受された。一方、キルトはアメリカの「伝統」的な民芸品のひとつとして展示され、当時の日本の人びとは「手芸」として注目した。
 大阪万博後、1975年と1976年にキルト展が相次いで開催された。「アーリーアメリカンのキルト」展(東京)と「アメリカのキルト」展(京都)である。ディスプレイされたキルトは、ジョナサン・ホルスタインのコレクションの一部で、19世紀後半から20世紀前半にトラディッショナル・パターンという幾何学的なパターンを用いて制作された「アンティーク・キルト」と称されるものであった。このように、大阪万博のアメリカ館でキルトに初めて接したことが、日本のキルト界にとってどのような意味を持つのかを明らかにする。



■ 近現代讃岐漆芸における意匠表現の革新 —文化財保護法及び日本伝統工芸展の影響─
佐々木千嘉/金沢美術工芸大学大学院

 本発表では、官展の流れを汲む「日展」と並び、戦後の日本工芸においてもうひとつの大きな潮流となる「日本伝統工芸展」を中心に、近現代讃岐漆芸における芸術性、産業、工芸教育の発展について言及しつつ、作家たちが独自の技法と感性によって伝統の表現領域を広げ、卓抜した意匠と造形による独創的な作品を発表していった過程について考察する。
 近現代讃岐漆芸の発展は、芸術性、産業、工芸教育の三つが互いに関係し合った結果、次々と作家が輩出される漆器産地としての豊かな土壌が形成されていたことに由来する。こうした背景には、文化財保護法の制定及び初期の日本伝統工芸展による地方産地への強い影響力を垣間見ることができる。
 昭和25年、文化財保護法が施行され、歴史上もしくは芸術上特に価値の高い工芸技術が国によって保護されることになり、江戸時代後期に玉楮象谷(1806-1869)が創始した蒟醤、彫漆、存清が無形文化財として認定された。
 昭和29年には、地方工芸技術の保存と後継者育成を目的とした香川県漆芸研究所が設立されたことにより、多くの美術工芸作家が輩出され、個性的表現の追求に大きく影響していったのである。
 同年から開催されている日本伝統工芸展においては、第十回展までの入選者数で他を圧していた香川県では、重要無形文化財保持者の磯井如真(1883-1964)と音丸耕堂(1898-1997)が中心的作家であった。磯井は、玉楮象谷の創始した蒟醤の線彫りを点で彫った「点彫り蒟醤」を創案し、奥行きと立体感のある絵画的表現を可能にした。一方の音丸は、当時の新素材であったレーキ顔料を用いて、それまでの堆朱、堆黒といった限られた色彩ではなく、豊富な色漆を駆使した彫漆作品を確立させた。
 香川県の漆芸作家たちは、彼ら重要無形文化財保持者たちから漆芸の専門技術を学ぶのみならず、色彩感覚や意匠における革新的な表現を確立させながら、互いに研鑽を積んでいた。同時期の日本工芸において、香川県の漆芸が確固たる地位を確立できた背景には、漆器産地としての伝統を誇りつつも、近現代作家たちが活躍できる豊かな土壌が形成されていたことが大きな要因となっていた。



■ 蒔絵の琳派意匠についての考察 —売立目録を中心に—
矢野節子/神戸大学大学院

 琳派の特徴は、装飾的な文様が絵画だけではなく室内調度や衣裳などの工芸品にも用いられていることである。とりわけ漆芸品は琳派の意匠が最もよく反映され、なかでも光悦蒔絵と光琳蒔絵が知られている。光悦蒔絵とは本阿弥光悦が考案した蒔絵の総称のことで、金・銀・鉛・貝などを用いた意匠のほか、硯箱の甲部分を高く盛った器形のものを指す。光琳蒔絵とは、尾形光琳が光悦蒔絵の特徴を継承して確立した、装飾的な様式のことである。意匠は両者とも和歌や謡曲、物語に取材しているが、類作が数多く遺されている。これは日本美術に写しという伝統があり名品の模作や図の借用が認められていることによる。また伝光悦・光琳作品とは、光悦・光琳周辺の人物の作と推測されるものを指す。
 琳派の蒔絵についての先行研究には内田篤呉氏の『光琳蒔絵の研究』(中央公論美術出版、2012年)があり、海外の印籠コレクション175点の蒔絵図案の調査がなされている。また近年では、横溝廣子氏らによって海外流出した工芸品の研究も進んでいる。しかし国内で愛好された琳派蒔絵についての言及は少なく、美術館・博物館の収蔵品は優品に限られているため全体像をつかむことが難しい。そこで発表者は明治時代末頃から多数発行された売立目録より蒔絵の琳派意匠を収集することとした。
 本調査研究では閲覧した2084冊のうち217冊に琳派意匠の蒔絵を確認し、実例に基づく検証を行った。蒔絵を施した道具類には硯箱等の文房具が最も多く、次に茶道具が続く。図案を草木花・鳥獣・器物・故事人物に分類し、光琳画集・雛形本等と照合した。その結果、本来主題となった謡曲・和歌・物語の意味を失ったものが見られ、琳派意匠が形骸化していることを確認した。1873(明治6)年のウィーン万博で人気を博した蒔絵は、欧米に大量に輸出するため粗悪化を招いた。この状況を解決するため政府主導の意匠図案奨励策がとられることとなるが、輸出工芸だけではなく江戸時代の延長線上にある美術工芸においても意匠の改良が必要な状況であったといえよう