第225回 意匠学会研究例会 発表要旨

■ 積雪地方農村経済調査所の副業振興事業─1930年代の農村におけるデザイン振興策─
今野咲/金沢美術工芸大学大学院

 積雪地方農村経済調査所(以下、調査所)は、1933(昭和8)年に山形県新庄市に設置された農林省の機関である。明治後期以降、日清・日露戦争を経て西日本を中心に近代工業が勃興したのに対して、農業を主幹産業とする東北地方は近代化の流れから取り残されていた。1930年代初頭の農業恐慌は日本各地の農村を疲弊させたが、大凶作や天災に見舞われた東北地方の農村の被害はとりわけ甚大であった。社会問題と化した農村の経済問題は、豪雪地帯の生活改善や経済振興を訴えていた山形県の代議士・松岡俊三(1880–1955)の尽力のもと、東北地方(積雪地方)の農村経済振興を目的とした調査所の設立へと結実した。
 調査所に関する研究は、従来、民芸運動やシャルロット・ペリアンとの繋がりから進められてきた。 とくに民芸運動とは、現存する民芸品の調査、展覧会や伝習会の開催といった一連の協働のなかで農村の副業としての新作民芸品の創作が試みられ、その後の東北地方への民芸運動の拡大にも大きく貢献したといえる。とはいえ、国立の機関である調査所が、いわば民間団体である民芸運動の同人らに協働を依頼するというイレギュラーな状況に至る経緯、あるいは協働体制の意義について、充分な考察がなされているとは言い難い。
 現存する資料によれば、調査所は民芸運動との協働を開始する以前の約2年間、木檜恕一(1881–1943)に 伝習会講師や木工旋盤の開発を依頼している。当時の東北地方は木材加工額より森林伐採額が大幅に上回るという不利益な状態であったため、 農林省としても森林資源の活用は大きな課題だったようだ。木檜に委託された木工旋盤の開発は、農村の副業としての、木工業の新たな育成にねらいがあったと いえる。
 本発表では特に、当時の公文書や関連資料をもとに木檜恕一への研究委託の概要を明らかにし、調査所で行なわれた工芸振興事業の一端を考察する。



■ アヌラーダプラの軍持研究
権相仁/慶星大学校

 本研究は、古代スリランカのアヌラーダプラの地域で生産、使用した軍持と呼ばれ る特別な形をした水瓶に関する内容である。「軍持とは、長頸瓶を基本の形態として肩部に水を入れる添水台がついていて、瓶の頂上部の注口部分に蓋をつけて、蓋の上に添台を 付着させた特異な形態の水瓶のことである」
 現在、アヌラーダプラ地域の軍持に関しては、初期段階からスリランカ政府によっ て仏教文化の発掘調査が進捗するに従い、各遺跡から軍持の破片が多量に発掘されているが、学術的には調査が行われていない状況である。軍持の破片の一部が 各博物館に展示されているが、仏教律蔵の内容と関連した研究や形態と用途に関しては研究が皆無で、遺物に関しては写真撮影ができないよう徹底して管理され ている。
 筆者がアヌラーダプラ地域の軍持形の水瓶に関心をもつようになったのは、求法僧法 顕が著した『法顕伝』の40章に、「君墀および澡罐」と記録された一節に注目したからである。
 本論では、『法顕伝』の第40章「軍持と澡罐」に関す る記録の背景には、法顕が海路で帰国する途中、最後に訪問した獅子国と関係があろうという仮説に確信をもちつつ、軍持と澡罐の遺物の存在 を確認し、アヌラーダプラ軍持の特徴と形態について考察する。 
 アヌラーダプラ地域で発掘された軍持の破片の形態、用途、年代等を考察すると、法顕がこの地域で 最初に軍持に関する情報に接して軍持を入手した後、帰郷船に乗船したという仮説が可能であり、『法顕伝』に記録された軍持と、現在アヌ ラーダプラ地域で発掘され、博物館に陳列されている軍持とは形態的・年代的に同一のものであるという判断は無理がない。