第222回意匠学会研究例会 発表要旨

■ 書物形成法における一考察 ―『吾輩は猫である』を手がかりに―
吉羽一之/千葉商科大学

 書物は、その書物が制作される時代の技術的な制約の中で形成されてきた。デジタル環境での制作が主となった現代では、流通や販売などの面で制約はあるが、活字やそのサイズの選択など、自由度は高い。しかし自由度の高い諸要素の選択理由は制作者の主観によるものや識字能力に頼った、読めればよいといったものが多く、明確ではない。本研究は、書物を、制作者の主観だけではなく、そのテクストがどのような環境で、どのように読まれるのかという観点と、人間の眼球能力における認知心理学的な見解をふまえ、理論的に制作する方法の一提案を試みる。
 しかし書物の中のテクストは多種多様であり、制作において考慮しなければならない構成要素もまた多岐にわたる。そこで、本研究では書物形成法の一提案のための分析と考察の対象を、読書において主となる本文紙面に絞り、日本に洋装本が伝播された明治以降の読書環境と読書形態の関係性に着目し、さらに多種多様な書物の中から分析対象を、日本における洋装本の歴史の草創期に刊行され、現代でも多くの読者に読まれているということを条件に設定し、夏目漱石『吾輩は猫である』(以下『猫』)を選択した。『猫』は現代に至るまで様々な判型で刊行されているが、それらの中で、まず明治38(1905)年の大倉書店より刊行された初刊本、昭和5年(1930)年に岩波書店より刊行された再刊本、そして最後に、最新刊(2013年時点)の平成23(2011)年の文藝春秋社刊行の文庫本の3点に対象を絞り、それぞれの本文紙面の諸要素を分析し、それらが刊行された時代情勢と読書の環境を調査し、どのような読書の形態が形成されていたかを考察した。
 また、認知心理学的な見解は、本文に使用されている活字サイズに着目した先行研究、今井直一『書物と活字』を参考文献とし、眼球能力に適した本文紙面の設計基準を検証した。
 今回の発表では『猫』の分析結果を報告するとともに、その結果と、眼球能力に適した基準をふまえた書物形成法を試論的に検討する。



■有松絞りの中国雲南省への生産委託の実態と意匠への影響
上田香/京都嵯峨芸術大学

 名古屋市有松地区の「有松絞り」は、旧東海道を行き交う旅人に土産物として販売したのが起源とされる約400年の歴史を有する染織伝統工芸である。手拭いや浴衣などに用いられ、大正時代に全盛期に至るが、戦後は人件費の高騰と着物文化の衰退により、生産の危機を迎える。その打開策として、絞り染めの中核である括り手を最初は韓国に次に中国へ求め、海外生産委託を進めた。現在では、中国を離れ、カンボジアへの生産委託に移行している。
 中国の中でも、1980年代より生産委託を始めた雲南省は、少数民族のペー族が古くから絞りを生産しており、生産委託には好都合であった。また、それ以前から生産委託していた沿岸部(江蘇省、広東省、上海)の元来絞りを生産していなかった地域と比較すると、委託する技法の種類、委託する製品の内容が異なっていた。雲南省へは土産物やインテリア用品等の生活雑貨を縫い絞り、杢目絞りといった比較的素朴な意匠をもつ技法で生産委託したのに対し、沿岸部の江蘇省、広東省、上海へは高度で時間がかかる技法を必要とする鹿の子絞り等の着物や浴衣を生産委託していた。本発表では、現地調査を実施した雲南省の生産委託の実態を分析し、最盛期数万人が従事した絞り生産委託が、現在では消滅しつつある要因をその意匠に焦点を当てて探った。 
                                          その結果、古くから独自の絞り技法を有する雲南省への生産委託が、「有松絞り」意匠の中国化・ハーフ化を招き、雲南省委託製品の流入が、特に土産物等の安価な「有松絞り」の著しい品質低下をもたらした事が明らかとなった。雲南省委託製品のデザイン・品質が徐々に日本で受け入れられなくなり、中国での人件費の高騰もあり、現在では雲南省への生産委託は激減している。  他方、雲南省においては有松の複雑な絞り技法は根付かなかったが、中国国内向けの絞り製品に有松的図柄が採用されており,「有松絞り」の意匠への影響が認められた。