第213回意匠学会研究例会 発表要旨

■「物語の絵画化の諸相—<一遍聖絵>と<釈迦堂縁起絵巻>の 画面構成のメカニズムの違いについて—」
井面舞/京都大学大学院

 物語の絵画化の問題は、文字情報として既にある物語をどのように色と形という視覚情報に変換しているのかを探求することにある。言いかえれば、絵画は、いかにして物語との関係を保ちながら画面構成の論理を形成しているのかを見極めることである。  本発表では、13世紀の「一遍聖絵」と16世紀の「釈迦堂縁起絵巻」の2つの絵巻を取り上げ、それぞれの画面構成の論理について分析し比較する。  まず「一遍聖絵」は時宗の開祖一遍の遊行を描いた高僧伝絵である。本作は主題部分よりも風景表現が存在感をもって描かれるという特徴を持つ。発表では本作の風景表現が、異なる時空間同士を「道」の描写でつなぐことで前後する土地との継続性を持つものとなっていることを指摘する。さらに、それらの風景には主題とは無関係の複数の事象が、主題部分と差別なく描かれていることを指摘し、このことから本作が一遍の物語を「旅」そのものを描くことで表現していることを述べる。  一方の「釈迦堂縁起絵巻」は京都・清凉寺の本尊の由来を描いた、狩野元信の筆とされる絵巻である。本作の大きな特徴は、明確な輪郭線と濃密な彩色を持つ霞である。発表では、この霞が画中の空間を区切る枠として機能する「固形化された霞」であることを述べ、霞によって画面内の情報量に粗密をつけることで場面を独立させる役割を果たしていることを明らかにする。さらにそれら独立化した場面は継起的に並べられることで、視覚的な明快さを画面全体に与えていることを指摘する。  最後にこれら2作品の違いは、前者が一遍の事跡という物語の連続性を損なうことなく、現実の世界の様相の全貌をできる限り客観的にそしてありのままに描き出すことを主軸にした画面構成の論理を有しており、後者は物語の連続性を分節しイマジネーションによってコラージュするという、いわば人間の創造性で物語を再構成したものを絵画化しているという点に見出せることを述べる。



■「ニュー・バウハウスの創設とシカゴのデザイン教育—渡米後のモホリ=ナギ」
金相美/大阪産業大学

 1933年にドイツのバウハウス(Bauhaus)は閉校した。当時はナチスの勢力が強まりヨーロッパ全域が戦雲に包まれた時期でもあった。そのため、多くの知識人が弾圧を逃れヨーロッパからアメリカ大陸に渡っていった。グロピウスやミース・ファン・デルローエなどバウハウスの教師たちも次々と海を渡った。すでにバウハウスを辞職していたモホリ=ナギ(Laszlo Moholy Nagy, 1895-1946)もシカゴ芸術産業協会(The Association of Arts and Industries)の招聘を受け渡米し、同協会の支援のもと1937年、シカゴにニュー・バウハウス(New Bauhaus、通称)を開校させる。このニュー・バウハウスは、その名称からしても、「ドイツのバウハウスの流れをくむ」デザイン学校であると捉えられがちである。設立当初、協会とモホリ=ナギが「バウハウス」という名やその教科課程をそのまま採用した事実を考えれば、ニュー・バウハウスをバウハウスの延長線上に存在するものとして考えるのは妥当であろう。しかし協会とモホリ=ナギは学校の運営をめぐり対立し、最終的には協会が資金援助を退け両者は決別してしまう。別の見方をすれば、ニュー・バウハウスの在り方に対し疑問が呈されたといえる。協会との決別以後、結果的にはモホリ=ナギが独自の学校運営を行うわけだが、そこにはバウハウス、ひいてはヨーロッパの近代デザインの伝統を理想とする姿勢が垣間見れる。このような協会とモホリ=ナギが見せた対立の根底には互いの理解不足があった。本発表ではイリノイ大学シカゴ校の特別コレクション(Institute of Design Collection)など、シカゴでの現地調査をもとに、ニュー・バウハウス設立前後のアメリカの状況、そして同校の運営実態とその成果について考察する。当時は革新的なデザイン教育の象徴であったバウハウスだが、その教育理念とシステムをアメリカという異国に直接に移植するといったモホリ=ナギのやり方は有効的だったのか、考察をもとに明らかにしたい。



■「歴史的街区の保全と新市街の建設の両立—建築家・都市計画家アンリ・プロストによるモロッコ歴史的都市のアーバン・デザイン—」
三田村哲哉/兵庫県立大学

 フランスの建築家・都市計画家アンリ・プロスト(L?on Henri PROST, 1874-1959)は1902年にローマ賞を受賞後、1910年アントウェルペン都市圏改造国際設計競技において1等を獲得し、フランス植民地政策の絶頂期における保護領モロッコの総督ユベール・リヨテ(Hubert LYAUTEY, 1854-1934)の下で、1912年から10年間、歴史的街区の保全と新市街の建設を両立するという新たな手法に基づいて、五大歴史的都市カサブランカ、フェズ、マラケシュ、メクネス、ラバトのアーバン・デザインを手がけた。  リヨテの保護領政策の一環として実施された都市計画の基本方針は、メディナという原住民のための旧市街を保全しつつ、その外側にヨーロッパ人のための新市街を建設するというものであった。これらの歴史的都市で実現した都市計画は、アントウェルペンに始まり、モロッコの後プロストが手がけることとなる「パリ地域圏計画」やイスタンブールの都市計画などにおいても採用された歴史主義と、第一次世界大戦前から急速に高まった都市の近代化を両立させた新たな手法によるものであった。  プロストはこうした多大な功績を残したにもかかわらず、彼に関するモノグラフは美術史家ルイ・オートクール(Louis HAUTEC?UR, 1884-1973)らによる『アンリ・プロストの作品L'?uvre de Henri Prost, architecture et urbanisme』(1960年)のみにとどまっている。本研究は、パリ国立古文書館、モロッコ国立図書館、フランス建築協会21世紀建築資料センター他において収集した資料に基づいて、プロストが手がけたモロッコの歴史的都市におけるアーバン・デザインの手法を明らかにするものである。