第211回意匠学会研究例会 発表要旨

■「京狩野家の画法継承」
多田羅多起子/京都造形芸術大学 非常勤講師

 桃山時代の狩野山楽を祖とする京狩野家は、明治時代にいたるまで代々京都で画事に携わった。初代山楽、二代山雪は広くその名を知られ、多くの伝世作品が存在する。三代永納、四代永敬、そして幕末の九代永岳についても、近年大幅に研究の進展が見られた。ところが、五代永伯から八代永俊については作品の紹介例も数例ずつに留まり、経歴にも不明点が多い。
そのなかで、昨年、六代永良が門人に与えた秘伝書2冊の全容が翻刻された。同書の冒頭で永良は、元信以来の自家の系統の正しさを唱え、ここに記されるのは代々当家に伝えられた秘密の画法であると宣言している。内容は大きくふたつに分かれ、前半は規範とすべき中国の画家たちの筆法解説、後半は具体的なモチーフの描法の図解が収録されている。いずれも、実際の制作において何に意を用いるべきかが述べられており、当時の京狩野家における画法継承の具体的な有り様を示している。
本発表においては、これら秘伝書に示された方式と山楽以降永良までの諸作例の対応を検証する。現在、作品解説等で「京狩野らしさ」が見られるという場合は、細緻な描き込みや濃密な彩色を意味していることが多いが、分析を通して、代々の画家が自覚する「京狩野らしさ」の造形的特質を抽出することができるだろう。
幕府の御用を請け負う御抱え絵師という身分であった江戸狩野と違い、京狩野は自ら顧客を得るための努力をしなければならなかった。江戸時代中期における紹介作例、文献史料の僅少さは、そのまま当時の京狩野家の苦闘を物語っている。幕末に活躍した九代永岳は山楽末裔であることを強く意識しているが、これも、不遇な時代にも自家の画系に誇りを持ち続けていた世代のつなぎがあってこそのことであろう。理を重んじる京狩野家において規範が形成され継承された過程を追い、伝統の墨守に留まらず時代の要請に応じて変化していった創造の実態を明らかにしていきたい。